#27 とうちゃんの思い出
今回はオヤジの思い出を。息子にとって、父親というのは基本的にビミョーなものなので、思い出などは少ないのがふつうです。ワタシも少ないです。なにしろウチのオヤジは家にいるのをイヤがった。床屋が終わって晩飯を食うと、自転車に乗ってどこかへ行ってしまう。酒も飲めないし、ギャンブルもやらないので、たぶん友だちの家に上がりこんでダベっていたのでしょう。そしてみんな寝静まった頃に帰って来ては、翌朝一番最後まで寝ている。ほっとくとお昼過ぎても寝ているので、起こすのは末っ子のワタシの役目でした。そんな役目はイヤでしたが、オヤジが一番なついていたのはワタシだったのです。ワタシがなついていたのではなくて、オヤジがワタシになついていたので、念のため。
とにかく毎日仏頂面で不機嫌そうなオヤジでした。床屋のくせにヒゲも剃らず、頭もボーボー。ほんとは次男なので、床屋なんかなりたくなかったらしく、兵隊から帰って来た若い頃は、楽団に入ったり、サーカスについて行ったりして、じいちゃんから逃げまわっていたとか。
長男という人がいわゆる早熟の天才で、親族一同のレジェンドでした。しかし、天才にありがちな不幸な運命だったらしく、若くして交通事故に遭った後、狂死しました。狂死は言い過ぎか。まぁ、石炭とか置いてある納屋に幽閉されてました。あははは、マジです。2歳か3歳ぐらいのワタシをおぶったおふくろが納屋にご飯を持って行くと、そのおじさんの手が戸の下の隙間からニュッと出て来る。これがワタシの一番古い記憶です。もしかすると夢で見た情景かもしれませんが、後年、おふくろにその話をしたら驚いていました。
まったく横溝正史の世界というか、おじさんはスケキヨかというか、一家に一件、必ず不幸な歴史が隠されているのが家というものなのですだす。
あと、オヤジがばあちゃんと話しをしているのを見たことがなかった。父と祖母なんてどこでもそんなものだろうと思っていたのですが、ウチのばあちゃんは継母で、しかも芸者あがりだったそうで、オヤジはばあちゃんが死ぬまで目さえ合わそうとしなかったです。たぶんばあちゃんがいるから家にいたくなかったんでしょうね、オヤジは。
ワタシが東京から帰って来て、田舎の工場に勤め始めた頃、東京で作って来た20万円ぐらいの借金をどうするかという話になり、アパートで同居していた友だちの実家をオヤジといっしょに訪ねることにしました。借金と言ってもほとんどが家賃関係だったので、友だちの家と折半するつもりだったんでしょう。しかし、手紙や電話で連絡しても、その友だちの親は、悪いのはワタシで、自分の息子はだまされただけだと思っているらしく、ラチがあかないので直談判に行くことになったわけです。借金絡みの気の重い旅でしたが、オヤジと二人だけでどこかに行くのははじめてでした。そして、オヤジは床屋以外のことをやるのは大好きだったのです。
友だちの実家も宮城県の田尻というところで、その日は前日からの雪のため、バスと汽車を乗り継いで片道4時間ぐらいかかり、着いたら田尻はさらに雪の中、駅前では膝ぐらいだった雪が、林のようなところを抜け、友だちの家の近くになると腰ぐらいになっていました。
なんとか友だちの家を探しあてると、仏頂面の親が渋々と家に入れてくれ、オヤジはとりあえず紳士的に話していたんですが、向こうは、カネなんか出せないの一点張りで身も蓋もない。オヤジには「オレ話すがら、あんだは黙ってろよ」と言われていましたが、そのうち頭に来たワタシが、「Sくんに会わせてくれ」と言うと、会わせるわけには行かない、今ここにはいないと大きな声を出したので、たぶんSは家のどこかに隠れていたんだと思います。
その後は、ワタシもSの両親も黙りこくり、オヤジだけがヘラヘラダラダラと何事か話していましたが、突然「んでは」と言って腰を上げると、ワタシをうながして帰りはじめ、友だちの家を出たあたりで、「あの親はだみだ」とポツリと言う。
帰りは吹雪きで、ワタシはさらに打ちのめされ、真っ白い息を吐き吐き、ハナを垂らしながら歩いていると、前を歩いていたオヤジがやおらニコニコとこちらを振り返り、「寒いが?」「あんだ、こういう天気でも歩がねど強ぐなんねど」と言いました。ワタシがはじめて聞いた父親らしい言葉でしたが、その後はまた二人とも無言で駅まで歩きました。オヤジはワタシのことを「おまえ」とは言わずに「あんた」と呼ぶ人でした。
25年前にオヤジが死んだあと、ワタシは形見分けとして時計とコートをもらった。今はだいぶヨレましたが、わざわざ仕立てたもので、貧乏な床屋には立派過ぎるほどのものです。ワタシがなぜそのコートをもらったかと言うと、それはオヤジが田尻に行った時に着ていたコートだったのを憶えていたからでした。
