« 2009年11月 | トップ | 2010年02月 »

#28 馬を喰う

28.JPG馬を喰って来ました。と言うと、まるまる一頭食べたみたいですが。店の中にパドックのようなものがあって、次々に現れる馬を見ながら、何番の馬を食べるか選ぶとか、食べたい部位にチョークで丸をつけるとか、そういう豪快なことはなく、あっさりとしたさくら鍋でした。おいしいです。牛とか豚とちがって、あまり脂肪もないのでヘルシーです。馬の側から言えば「ひとを食っておいてヘルシーってことはないだろう」ってなもんですが、ワタシだったら、腿のところを食われても「いがらしさんの腿肉ってすんごいヘルシーですね」と言われれば、ちょっとはうれしいってもんでしょう。

最近、嫁さんが馬好きで、きっかけは乗馬に通い出してからです。「今日は足を踏まれた」とか「今日は肩を噛まれた」とか「今日は頭から馬糞を浴びた」とか、いちいちうれしそうに報告してくる。その挙句「馬ってかわいいよ」とか「種を超えた恋だよ」とかエトセトラエトセトラ。なので、馬を食べることになってからもしばらく黙っていたのですが、特に嫌味を言われることもなく杞憂でした。もっとも「おいしかったから」とか言って、今度誘ってみるつもりはありませんが。

馬というと、子どもの頃は近所に馬喰(ばくろう)がいました。カポカポとふつうに人が跨って通り、馬糞もふつうに路上にこんもり落ちていた。あの馬糞、誰が片づけてたのかなぁ。

その馬喰の家に同級生がいたのですが、彼の家へ行くには、馬や牛のいる畜舎を通って裏に抜けなければならない。子どもにとって、両脇からヌッと頭を出しているいくつもの馬と牛の間を通るのは勇気がいります。畜舎の中は薄暗く、向こうの出口からの光で逆光になり、馬の首と牛の首がそれぞれシルエットになっていて、吐く息も大きく真っ白でした。これはちょっと通れまへん。実はその馬喰は今もやっています。ワタシの同級生があとを継ぎました。

町外れの工場に勤めていたワタシは、そのうち中途半端な労働争議の首謀者にされたこともあって、結局辞めてしまいます。次に勤めたのが町の印刷屋でした。そこは一応、チラシだのポスターだのもやっていたので、ただの工員よりは自分に向いていると思ったんでしょうね。

そこに勤めた初日に一番最初に話しかけてくれたのがOさんでした。Oさんはワタシよりひとつ年上、6人兄弟の末っ子で、ニコニコというか、温厚というか、不機嫌な時でもどこか口元が笑っているような人です。他に知り合いもいなかったので、よく遊びに行き、麻雀を覚えたのもOさんの家で、以来、土曜の夜はサタデーナイト・マージャンが我々の定番でした。

Oさんの家には白っぽい雑種の犬が一匹いた。あの頃の犬はやたら吠えるか、暗い犬小屋の奥で死んだように丸くなったいるかのどちらかで、その犬も誰かに構ってもらっている様子もなく、そこかしこに落ちている糞の中で、ただ繋がれ寒々と汚れていました。

それに比べたら、今のペットの身分は夢のようなものでしょう。人間の目から見てもうまそうなものを食べ、服を着せてもらい、散歩にも連れて行ってもらえる。ウチにもネコがいますが、ワタシの目から見ても、食っては寝、遊んでは寝、時々腹が立つぐらいです。

Oさんのところには、みかん箱に金網を張っただけのような鶏小屋もあり、そこで鶏も飼われていた。ある日、麻雀をしに行った時に見たら鶏がいない。Oさんに聞いたところ「タマゴ産まねぐなったのや」とのこと。それで鶏はどうしたのか聞いたところ、自分の手牌に目を落としながら、つまらなさそうに「食ったのや」と言う。そう言うOさんが、なんだかかっこよかったのを覚えています。

#27 とうちゃんの思い出

27.JPG今回はオヤジの思い出を。息子にとって、父親というのは基本的にビミョーなものなので、思い出などは少ないのがふつうです。ワタシも少ないです。なにしろウチのオヤジは家にいるのをイヤがった。床屋が終わって晩飯を食うと、自転車に乗ってどこかへ行ってしまう。酒も飲めないし、ギャンブルもやらないので、たぶん友だちの家に上がりこんでダベっていたのでしょう。そしてみんな寝静まった頃に帰って来ては、翌朝一番最後まで寝ている。ほっとくとお昼過ぎても寝ているので、起こすのは末っ子のワタシの役目でした。そんな役目はイヤでしたが、オヤジが一番なついていたのはワタシだったのです。ワタシがなついていたのではなくて、オヤジがワタシになついていたので、念のため。

とにかく毎日仏頂面で不機嫌そうなオヤジでした。床屋のくせにヒゲも剃らず、頭もボーボー。ほんとは次男なので、床屋なんかなりたくなかったらしく、兵隊から帰って来た若い頃は、楽団に入ったり、サーカスについて行ったりして、じいちゃんから逃げまわっていたとか。

長男という人がいわゆる早熟の天才で、親族一同のレジェンドでした。しかし、天才にありがちな不幸な運命だったらしく、若くして交通事故に遭った後、狂死しました。狂死は言い過ぎか。まぁ、石炭とか置いてある納屋に幽閉されてました。あははは、マジです。2歳か3歳ぐらいのワタシをおぶったおふくろが納屋にご飯を持って行くと、そのおじさんの手が戸の下の隙間からニュッと出て来る。これがワタシの一番古い記憶です。もしかすると夢で見た情景かもしれませんが、後年、おふくろにその話をしたら驚いていました。

まったく横溝正史の世界というか、おじさんはスケキヨかというか、一家に一件、必ず不幸な歴史が隠されているのが家というものなのですだす。

あと、オヤジがばあちゃんと話しをしているのを見たことがなかった。父と祖母なんてどこでもそんなものだろうと思っていたのですが、ウチのばあちゃんは継母で、しかも芸者あがりだったそうで、オヤジはばあちゃんが死ぬまで目さえ合わそうとしなかったです。たぶんばあちゃんがいるから家にいたくなかったんでしょうね、オヤジは。

ワタシが東京から帰って来て、田舎の工場に勤め始めた頃、東京で作って来た20万円ぐらいの借金をどうするかという話になり、アパートで同居していた友だちの実家をオヤジといっしょに訪ねることにしました。借金と言ってもほとんどが家賃関係だったので、友だちの家と折半するつもりだったんでしょう。しかし、手紙や電話で連絡しても、その友だちの親は、悪いのはワタシで、自分の息子はだまされただけだと思っているらしく、ラチがあかないので直談判に行くことになったわけです。借金絡みの気の重い旅でしたが、オヤジと二人だけでどこかに行くのははじめてでした。そして、オヤジは床屋以外のことをやるのは大好きだったのです。

友だちの実家も宮城県の田尻というところで、その日は前日からの雪のため、バスと汽車を乗り継いで片道4時間ぐらいかかり、着いたら田尻はさらに雪の中、駅前では膝ぐらいだった雪が、林のようなところを抜け、友だちの家の近くになると腰ぐらいになっていました。

なんとか友だちの家を探しあてると、仏頂面の親が渋々と家に入れてくれ、オヤジはとりあえず紳士的に話していたんですが、向こうは、カネなんか出せないの一点張りで身も蓋もない。オヤジには「オレ話すがら、あんだは黙ってろよ」と言われていましたが、そのうち頭に来たワタシが、「Sくんに会わせてくれ」と言うと、会わせるわけには行かない、今ここにはいないと大きな声を出したので、たぶんSは家のどこかに隠れていたんだと思います。

その後は、ワタシもSの両親も黙りこくり、オヤジだけがヘラヘラダラダラと何事か話していましたが、突然「んでは」と言って腰を上げると、ワタシをうながして帰りはじめ、友だちの家を出たあたりで、「あの親はだみだ」とポツリと言う。

帰りは吹雪きで、ワタシはさらに打ちのめされ、真っ白い息を吐き吐き、ハナを垂らしながら歩いていると、前を歩いていたオヤジがやおらニコニコとこちらを振り返り、「寒いが?」「あんだ、こういう天気でも歩がねど強ぐなんねど」と言いました。ワタシがはじめて聞いた父親らしい言葉でしたが、その後はまた二人とも無言で駅まで歩きました。オヤジはワタシのことを「おまえ」とは言わずに「あんた」と呼ぶ人でした。

25年前にオヤジが死んだあと、ワタシは形見分けとして時計とコートをもらった。今はだいぶヨレましたが、わざわざ仕立てたもので、貧乏な床屋には立派過ぎるほどのものです。ワタシがなぜそのコートをもらったかと言うと、それはオヤジが田尻に行った時に着ていたコートだったのを憶えていたからでした。

ABOUT

〝人生というのは過去にしかないものだと思っています。ものみな過去にあるのです〟
魂の漫画家・いがらしみきおが現代日本に放つ自伝的フォト&エッセイ! 「ぼのねっと」にて独占公開!